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明治・大正・昭和期
江戸期
古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山期

重要文化財

会津各地には,東北の中世文化を代表する傑作も数多く残されており、文化財に指定されている。
建造物 熊野神社長床(和様)
法用寺本堂内厨子(唐様)
勝常寺薬師堂(密教建築)
喜多方市(国重文)
高田町(国重文)
湯川村(国重文)
彫 刻 安穏寺阿弥陀如来像 
行道面(能面,願成寺)
猪苗代町(国重美)
喜多方市(県重文)
書 跡 塔寺八幡宮長帳(心清水八幡神社) 会津坂下町(国重文)


【明治・大正・昭和】

西暦(和暦)

会津の足跡

1945年(昭和20年)
1941年(昭和16年)


1934年(昭和9年)

ポツダム宣言を受諾して日本が降伏し、連合軍が若松に進駐
太平洋戦争が始まる。会津・郡山商業・白河瀬谷の三銀行が合併し東邦銀行誕生。
若松市町内会及び隣組規定制定。
尾瀬ヶ原が本県初の国立公園に指定。

1919年(大正4年)
1918年(大正3年)
野口英世が黄熟病の病原体を発見。
福島・若松・喜多方・白河・郡山・山都村などで米騒動
1890年(明治23年)
1888年(明治21年)
1882年(明治15年)

1876年(明治9年)
1874年(明治7年)
1871年(明治4年)
1869年(明治2年)
1868年(明治元年)


1867年
若松賤子「小公子」を平易な口語体に翻訳
磐梯山大爆発をおこし、桧原・小野川、秋元湖を生ずる
農民数千人、弾正ヶ原(塩川町)へ集合、警察署を包囲する
福島・磐前・・若松の三県を合併して福島県になる
若松県八七校小学校設立
廃藩置県が行われ、若松・二本松・平県の三県に統合される
版籍奉還が行われ、若松県・福島県・白河県が置かれる
鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争勃発)
会津藩、軍制改革し朱雀・青竜・玄武・白虎隊を編成
奥羽越二五列藩同盟成立。五箇条の御誓文
白虎隊、飯盛山で自刃
明治天皇が即位し、王政復古の大号令

●明治時代の文化
 近代文学の確立期に活躍した若松市出身の若松賤子は,明治23年(1890年)に「小公子」を平易な口語体に翻訳し,現在に至るまで愛読され,名翻訳として文学史上に輝いている。
 野口英世は,明治9年(1876年)、耶麻郡翁島村に生まれ,明治33年(1900年)渡米。蛇毒の研究に成功し,後に,黄熱病の病原体を発見し,予防液を作り出すことに成功した。さらに研究を続けるためにガーナのアクラヘ行ったが,黄熟病に感染して死去した。

●初めての総選挙
 明治22年(1889年)、第1回総選挙が行われ,福島県でも7人が国会議員となった。直接国税を15円以上納めている男子に限るという敗しい制限選挙で,人口95万人のうち,有権者は1万3,000人にすぎず,人口100人につき,1.4人という低華だった。たとえば,南会津郡では人口2万7,000人のうち58人しか選挙できなかった。有権者0人という村もめずらしくなかった。

第1回総選挙(明治23年7月1日)当選者
       
1 信夫・伊達 900 佐藤忠望
2 安達・安積 771 安部井 磐根
3 田村・岩瀬・石川・東白川・西白河 1,525
640
河野広中
鈴木万太郎
4 会津 1,373
1,053
山口千代作
三浦信六
5 いわき・相双 1,184 白井遠平

●全国の先頭に立った自由民権運動
 福島県は全国で2番目の政治結社・石陽社ができるなど, 自由民権運動がたいへん盛んであった。その指導者河野広中は.県内各出に自由党の組織をひろげた。それに対して政府は, 2代県令に三島通庸を派遣した。三島は.会津三方道路建設を農民に強制する一方で,自由党を解散に追いこむために帝政党をつくった。さらに,道路反対のために弾正ヶ原に集まり,喜多方警察署におしかけた農民と自由党員を大量に逮捕し,さらに県内各地にいた自由党員をいっせいに逮捕して,運動をおさえつけた。
 この福島事件は,明治政府の力を全国に示したが,河野らの活動は,一般民衆の人権を守る戦いとして大切であった。また,農民の血と汗で完成した三方道路によって福島県の発展が促されたのも事実である。

●廃藩置県
 1871(明治4)年から明治政府は廃藩置県を断行した。県はめまぐるしくかわり1876年に現在の形になった。県の下には区をもうけ,政府の政策を行きわたらせようとした。府には知事,県には県令を任命し,中央集権化をすすめ、初代福島県令山吉盛典は,山形県の出身である。

●苦しい生活の続く農民一地租改正
 役人が農地に値段をつけ、値段が高く地主と小作人の関係も認められたため大部分の農民の生活はかえって苦しくなり,福島県農家戸数4万9,930戸中,極貧者が3万2,220戸で「生きているだけの生活はとても人間生活とはいえません」という記録も残っている。

●戊辰戦争
 1868(明治元)年の戊辰戦争では,会津藩が旧幕府派として強力な存在だったこともあり,県内各地が戦場となった。会津白虎隊や二本松少年隊などの悲劇も生まれた。
 東軍は,鶴ヶ城を中心として最後まで抵抗したが敗れ去った。これ以降,明治維新の大改革が,急速に進んでいく 。


【江戸】

西暦(和暦) 会津の足跡
1867年(慶応3年)
1866年(慶応2年)
1864年(元冶4年)
1862年(文久2年)
大政奉還
討幕のための薩長同盟成立
幕府が第一次長州征伐を行う
会津藩主松平容保、京都守護職に任命される
1857年(安政4年)
1853年(嘉永6年)
1808年(文化5年)
1803年(亨和3年)
1784年(天明4年)
1749年(寛延2年)
1726年(享保11年)
1721年(享保5年)

1716年(享保元年)
1666年(寛文6年)
1647年(寛永24年)
1642年(寛永19年)
1632年(寛永9年)
1603年(慶長8年)
会津藩日新館に蘭学所設置
ペリーが浦賀に来航し、開国を要求する
会津藩、幕府より蝦夷樺太の守備命ぜられる
会津藩の日新館完成
奥羽ききん発生、会津は夏中に雨降らず
百姓一揆おこる
会津藩、ろうそく、うるしの御定目を制定し、専売制強化
南山御蔵入領百姓代表25人江戸に上り訴状提出
南山御蔵入領で百姓一挨発生
徳川吉宗が八代将軍となる(享保の改革を行を行う)
会津風上記が完成
会津本郷焼創業
会津藩で凶作・飢餓おこり農民多数逃散
会津でキリシタンが処対される
家康、任夷大将軍に任令され江戸幕府を開く

●松平容保
 会津藩23万石9代目の藩主松平容保は、徳川家茂の強い要請で京都守護職を引受け孝明天皇からも信頼され、公武合体に力を注ぐが将軍家茂,孝明天皇が病没し、成功しなかった。ここから会津藩と容保の悲運は始まる。

●年貢は収穫の63%
 一般に,年貢率は農民全部が同じというのではな<,所有地の善し悪しによって,上・中・下の3階層にわけられているのに応じて,年貢率もわけられていた。
 南会津一帯は,南山5万石とよばれ,幕府領であっが、時代により南山は,会津藩が代支配したり,幕府が直接支配した。

会津藩が代支配した場合は,収穫した米のうち43%,幕府の直接支配の時期は63%も年貢として取り立てられた。特に、享保・天明・天保の凶作の時などは,「われら百姓は死ぬほかはない」と農民は訴えた。

●キリシタンヘの弾圧(会津湯川にあるキリシタン塚)
 この塚には、寛永12年(1635年)12月17日以降,外人バテレンなど多数のキリスト教信者が処刑されたと記されている。天正18年(1590年)会津に入った蒲生氏郷はキリシタン大名であったため、知行地であった若松・猪苗代・南会津・郡山・三春・白岩・糖沢・二本松・福島にキリスト教が広まった。しかし,寛永9年(1632年)会津藩15人,白河藩13人,二本松藩14人,若松藩42人のキリシタンが処刑されている。

●奥州のおさえとしての会津
 東北各県においては,同一大名が江戸初期から幕末にいたったのにくらべ,福島県はまったく異なっていた。
奥州の入口にあたる福島県は,奥州のおさえとして幕府の息のかかった譜代大名が配置された。23万石の会津松平藩を除けば,譜代大名は一般に10万石以下である。
会津を除いては地理的に複雑なこともあって,数多くの大名が配置されることになった。譜代大名は比較的転封が多かったため,福島県は数多くの中小大名を擁し、ひんぱんに変動があった。

●会津藩の大名配置(江戸初期〜幕末まで)
蒲生氏(60万石)→→加藤氏(40万石)→→保科(松平)氏(23万石)
 秀吉の奥州処分で蒲生氏郷の所領となる。氏郷没後、上杉氏が120万石をもって越後より移封、関ヶ原処分の結果、上杉氏は米沢30万石に減転封、宇都宮から蒲生氏が帰るが嗣子なくして絶え、加藤嘉明が伊予伊予松山より入封するが、これも家中騒動で収公。
 二代将軍秀忠の庶子で、家光の実弟、保科正之が入封するにあたって、藩主家の安定を見る。 
会津若松は奥羽の外様各藩を押さえる扇の要であり、信頼篤い家門大名を配置する必要があったのである。
保科正之は、叔父として幼い四代将軍家綱を実直に補佐し、幕政でも活躍。この保科正之を藩祖として、幕末の容保まで、ご家門親藩の中でも越前松平家に次ぐ家格の大名家として、幕府の柱石となる。
 保科正之は将軍家綱からの松平姓の下賜を再三辞退しており、松平姓を名乗るのは三代正容からである。
保科正之については、各種手頃な読み物が出ている。中公新書「保科正之」などをお読みいただくと、この数奇な運命をたどった清廉実直な人物がお分かりいただけると思う。

蒲生家 下野宇都宮より 60万石 外様 城主(嗣子なく断絶)

藩主名

官位・通称

実父

初代

蒲生秀行(ひでゆき)

従三位 飛騨守 参議

蒲生氏郷嫡男

二代

蒲生忠郷(たださと)

従三位 下野守 参議

蒲生秀行嫡男

加藤家伊 予松山より40万石 外様 城主(家中騒動の上、領地返上を願い出て改易)

藩主名

官位・通称

実父

初代

加藤嘉明(よしあき)

従四位下 左馬頭

岸教明(たかあき)の子

二代

加藤明成(あきなり)

従四位下 式部少補 侍従

加藤嘉明嫡男

松平(保科)家 出羽山形より 23万石 家門親藩 溜間 城主 

藩主名

官位・通称

実父

在任 享年

初代

保科正之(まさゆき)

正四位下 肥後守 左近衛中将

徳川秀忠の四男 26 62歳

二代

保科正経(まさつね)

従四位下 筑前守

保科正之の四男 12 36歳

三代

松平正容(まさかた)

正四位下 肥後守 左近衛中将

保科正之の六男 50 63歳

四代

松平容貞(かたさだ)

従四位下 肥後守 左少将

松平正容の八男 19 27歳

五代

松平容頌(かたのぶ)

正四位下 肥後守 左中将

松平容貞の嫡男 55 62歳

六代

松平容住(かたおき)

従四位下 肥後守

松平容貞の弟容詮の第二子 5ヶ月 28歳

七代

松平容衆(かたひろ)

従四位下 肥後守 左少将

松平容住第二子 16 20歳

八代

松平容敬(かたたか)

正四位下 肥後守 左中将

水戸藩主徳川(水戸)治保の二男である美濃高須藩主松平(尾張)義和の子 30 47歳

九代

松平容保(かたもり)

正三位 肥後守 参議

美濃高須藩主松平(尾張)義建の六男、先代容敬の甥である 16 59歳

上記、会津藩の大名配置(江戸初期〜幕末まで)に関し「江戸三百藩HTML便覧」 より抜粋引用させて頂きました。

●松平容保(まつだいらかたもり)享年62歳
 1862年7月、将軍後見職一橋慶喜は尊王派の「天誅」により尊王攘夷(そんのうじょうい)と公武合体両派の戦いが激しく、治安悪化の一途をたどる京都の秩序回復のため京都守護職を設けた。その職は幕府を守護する藩の者で藩兵によって治安維持をし、また、朝廷との交渉にも当たる必要があったため名門の藩主であることが前提とされたいた。その条件を満たしたのが佐幕派の要、会津藩藩主「松平容保」であった。しかし、京都守護職の就任は「火中に栗を拾う」ようなもので「容保」も再三固辞したが政治総裁職の松平慶永の熱心な説得もあり承諾せざる終えなかった。
 容保は新撰組と兵1,000を連れて京都入りし、尊王攘夷運動の取り締まり、公武合体の推進に腐心した。また、尊王派の長州を朝廷から遠ざけるため同じく公武合体派の薩摩と手を結び8月18日の政変で長州を京都から追放することに成功した。  その後、禁門の変で長州軍を破るなど容保の活躍で京都は落ち着きを取り戻したかのように見えたが、薩長同盟により幕府軍が不利になり1867年大政奉還が行われると容保も京都守護職の任を解かれて新政府側の怒りを一気にかうこととなった。鳥羽伏見の戦いで戦わずして敗れると、容保は奥州にもどり奥羽越列藩同盟を結成し、新政府にたてつくが、白虎隊の悲劇で有名な通り会津藩は敗れ、同年9月に容保は官軍に捕らえられ謹慎の身となった。


【古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山】

西暦(和暦) 会津の足跡
1600年(慶長5年)
1598年(慶長3年)
1593年(文禄2年)
1591年(天正19年)
1590年(天正18年)
1589年(天正17年)

1384年()
家康、江戸城進発、会津へ向かう。関ヶ原の戦い
秀吉、上杉景勝を会津一二〇万石に移封
会津藩黒川城本丸天守閣が完成し、鶴ヶ城と改める
会津藩下郷赤岡村農民、検地に反対し騒動
豊臣秀吉、木村清久に令じ会津を没収させる
芦名義広、伊達政宗と摺上原に戦う。伊達政宗、黒川城に入り、佐竹、岩城の兵を討つ
芦名直盛が黒川館を創営する
1100年()
806年(大同元年)
728年(神亀5年)
4世紀ごろ
会津竜興寺の「一字蓮台法華経」がつくられる(国宝指定)
磐梯山が噴火する
会津嶺などの万葉集が編される。
会津若松市大塚山古墳がつくられる
会津坂下町亀ヶ森古墳つくられる。古墳内部に壁画が描かれる

秀吉の天下とり完成

●奥州仕置
 1590年,小田原城陥落させ,北条氏を討った秀吉は、自ら黒川城(鶴ヶ城)に乗りこみ奥州仕置に着手した。このことは,奥州支配にあたって,関東につながる本県がいかに重要な地であったかを示すものである。 腹心,蒲生氏郷を会津に配置した。これは、400年前に頼朝が関東武士に分割支配させて以来の大変革であった。
 「闘わずして奥州を手に入れる」といった秀吉のことばは、そのまま実現、同時に天下統一は完成した。

●きびしい太閤検地 なで切りにされた赤岡村
 天正18年(1590)に秀吉によって出された奥州検地の命令により.本県でもきびしい検地が行われ、徳川家康をはじめ,当時のそうそうたる武将があたった。
 浅野長政が福島地方,豊臣秀次が会津地方、宇喜多秀家が白河地方の奉行をつとめた。しかし、検地には、農民の強い反発があった。赤岡村(南会津郡下郷町)では、通常の田畑の外に焼畑までも検地帳に書き加えられそうになった農民が「もはや生きていけぬ」と決起し、百余人が検地にきた役人16人をまちぶせし、クワ・カマで打ち殺してしまった。
 検出役人をみな殺しにして無事にすむはずもなく,すぐに秀吉のきびしい取りしまりの命令がくだった。役人襲撃に参加した63人はことごとく捕らえられて近くの杉原村(南会津郡田島町)に連行されたうえ、全員の首がはねられた。文字どおり「なで切り」が強行されたのである。
 赤岡村では,このぎせいを払って,焼畑だけはどうにか検地帳にのせられることをまぬがれたが、これは、県史上最もきびしい農民一揆ヘの弾圧であったといる。

●奥州の覇者伊達氏
 戦国時代も大詰めの天正17年(1589年)会津芦名氏と伊達氏が、奥州の覇権をかけて激突したのが、摺上原の合戦であった。「この戦いは、名目的には、芦名と伊達の決戦あったが、実際には、佐竹氏とこれに従う芦名、白河、岩城、二階堂、石川などの連合軍対伊達、田村両氏の決戦であった。伊達方が圧勝したことにより、佐竹をのぞく本県のほとんどの武将が伊達氏に服属することになり、相馬領を除く福島県全土は、伊達氏の領地となった。ここにようやく福島県の戦国時代は終わりをむかえた。

●鎌倉時代初めに頼朝によって決められた所領関係
 文治五年(1189)頼朝は平泉で奥州支配の開始を告げる。
「吉書初め」の儀式を行い、注目の中で恩賞を行った。その結果、新しく本県領地を与えられた関東武士や本領安堵された土着の武士にっよって新しい所領関係が出来上がった。

千葉常胤 相馬を中心とする浜通り地方(後に相馬氏を名のる)
佐原義連 若松を中心とする会津地方(後に葦名氏を名のる)
常陸入道念西 伊達地方を中心とする県北(後に伊達氏を名のる)
結城氏(白河郡)・二階堂氏(岩瀬郡)・田村氏(田村郡)・伊東氏(安積郡)・長沼氏(南会津郡)・石川氏(石川郡)


●徳一と恵日寺(えにちじ)
 耶麻郡磐梯町に恵日寺という寺がある。9世紀のはじめごろには,この寺は本県地方さらには東北地方におけるもっとも活発な宗教活動の中心であり、また日本の仏教界の注目をあびた寺であった。この寺を創建したのが徳―である。徳―は、興福寺や東大寺で仏教を修めたが、権力とむすぶ仏教をきらい奈良を去り東国に下った。常陸に中禅寺をひらき、会津に恵日寺を創建した。会津にあって徳―は、唐から帰った最澄・空海らと仏教について意見を戦わせた。

●万葉集に詠まれた会津の風物
 会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲びにせもと紐結ばさね
 (会津の山のある国が遠くて逢えないときには偲びぐさにするようにと,紐を結んで下さい。)

●塩坪遺跡
 耶麻郡高郷村の塩坪遺跡は本県でも代表的な旧石器時代の追跡で、今から1万5,000〜1万4,000年前のものと考えられている。この遺跡は、見晴らしがよく、水の便もよい阿賀川の河岸段丘の上にあり、直径10mほどの範囲から約2,000点の資料が発見されている。当時の人々は、土器を作ることを知らず、打ち欠いただけの石器を用いて狩りや動物の解体を行っていたと考えられている。

●大塚山古墳
 大塚山古墳は、会津若松市の大塚山に4世紀の中ごろ築かれている。

参考文献
            東京法令出版(株) 世紀別歴史資料 福島県版

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